君 恋ひ願ふ




 あのとき彼が嘘をつかなければ。
 あのとき自分がその嘘を信じなければ。帰れと言い放たれたあのときに、気づいていたなら。
 彼は生きていたのかもしれない。平泉の雪原で、独り盾となって逝くことは、なかったのかもしれない。
 少女の頬を伝った涙が、一滴彼の冷えた頬に落ちる。
 ――死の間際、彼は、どうせなら笑顔が見たかったと言った。
「ばかですよ、弁慶さん」

 こんなにもあなたを好きだと気づいた私が、泣かずになんていられるはずもないのに。

***

「……彼女のところに行く気ですか?」
 ヒノエが口を開くより早く、弁慶がいつもと変わらぬ穏やかな口調で訊ねた。その声がどこか低く、不機嫌にも聞こえるのは気のせいではないだろう。
「だったら?」
「やめておいたほうが、いいと思いますよ」
 告げられた言葉に、ヒノエは顔をしかめる。
「あんたに指図される筋合いはないね」
「……それも、そうですね」
 あっさりと肯定されて、ヒノエは面食らう。いつもならばここで二言三言は返してくるものを。
「君なら、彼女を慰めることができるかもしれない」
 弁慶はすいと視線をヒノエから逸らして、庭へと向ける。それを辿れば、その先には白い花が一輪、上向いて美しく咲いていた。
「……僕は彼女を、泣かしてしまうだけのようだから」

(高宮圭 本文より抜粋)








 廊下の向こうで玄関のドアが開く音がした。
 雨は見る間に土砂降りとなり、冬にしては珍しく鳴る神もご機嫌斜めのようだ。
 望美さんが「行ってらっしゃい」と言っているのが聞こえ、続いてドアの閉まる音がすると、軽い足音が急いだ様子でこちらに近づいてきた。
「譲くんは出かけたんですか?」
 居間に入ってきた彼女にそう声をかける。
「はい。ほら、突然雨が降り出したでしょう? 景時さんたち、傘持たないで行っちゃったから」
「それでわざわざ? 譲くんも大変ですね」
「朔が濡れるのはかわいそうだから、って。優しいですよね、譲くん」
 僕が苦笑すると彼女もまた苦笑気味に、けれどやわらかい笑顔を浮かべて見せた。互いに信頼し合っている幼馴染を思うときの笑顔。そんな表情にさえ胸をざわつかせている自分にはもう呆れるしかないけれど。
 心の内で小さく溜め息をついていると、遠慮がちにこちらを見つめる瞳とぶつかった。
「どうかしましたか?」
「あの、弁慶さん、今ヒマ……じゃないですよね。ならせめてキッチンで本読みませんか?」
「は?」
 突然の言葉に首を傾げていると、続けざまに彼女が言った。
「さっき譲くんにお鍋見ておくように言われたんですけど、その……」
 言い淀み、窓の外へと視線を向けた彼女の体がびくりと固まる。
 仄青い稲妻が一筋、空を駆けたかと思うと続けて大きな雷鳴がした。
 その音に彼女はさらに身を竦ませる。
「……雷が怖いのですか?」
 単刀直入に尋ねると、彼女は小刻みに首を振った。それも、横に。
「こ、怖くなんてないですけど、その……っ」
 その時また一段と大きな雷鳴が轟き、彼女は喉を引きつらせながら口を閉ざした。その音が鳴りやむのを待ち、おそるおそる顔を上げると再び同じ言葉を口にする。
「と、とにかく。キッチンで読書しましょ、ね」
 彼女はそれだけ言うとくるりと身を翻し台所へ入って行こうとしたが、ふいに途中で動きを止めた。そしてゆっくりとこちらを振り返る。
「あの、弁慶さん。お願いです、早く……」

(高宮むろ 本文より抜粋)